左手という純粋で革新的な存在





自分は右利きだけど、
左手もうまく使えるようになって
両利きになれたら楽しいだろうな。



実際に左利きを習得するには
至らなかったが、ふとそんなことを思った。

きっと私のように
"両利き"にあこがれた人はいることだろう。









右手は全てを知っている。
酸いも甘いも。

右手には自分の経験や人生が
詰まっているように思う。


対して左手、
左手は何も知らない。

なぜなら日常の大体の出番を
右手に奪われるからだ。

ご飯を食べるときはもちろん、
勉強する時も左手に出番はない。

改札を通るときや
人と握手をするときも、
出番のすべては右手にある。

私の中で
左手にスポットライトが当たった記憶が
あるとしたら、リレー競走で
バトンを貰ったときぐらいだろう。

その際の左手は大活躍を見せてくれた。









日常の数多くの出番を
右手にとられる左手だが、

私は左手に
「純粋で革新的な存在」
というイメージを持っている。

「右手が知っていることを左手は知らない」と私は冒頭で申し上げた。

右手が知っている"秩序"を
左手は知らない。

右手が知っている"過去"や"現在"を
左手は知らない。

その代わり左手には
「無秩序」という「自由」が。
「未来」という「可能性」が
あるように思う。


他にも、左手にはこんなイメージがある。

右手は大人で左手は子供
右手は秩序で左手は無秩序
右手は論理的で左手は感情的

右手は現在と過去で左手は未来
右手はクラシックで左手はモダン
右手は真昼で左手は深夜

右手は必然で左手は偶然
右手は繊細で左手は大胆
右手は保守的で左手は革新的

右手は地球で左手は宇宙


私にとって左手は
神秘的で不確実なものである。









こうしてエッセイを書くことも
実は左手を使う感覚に似ていたりする。

神秘的に広がるイメージを
文書に整えようとする行為が、
不確実な左手をうまく使おうとする作業に
似ている気がする。









この先、
自分が多くのことを知って、
大人が仕上がっていったとしても、
きっと左手は
純粋で革新的なままでいてくれるだろう。

そう思うと
「両利きでなくていい。」ように思う。
いや、両利きでなくていい、

不器用な左手のままで。




おぼつかない手つきに
純粋と革新と神秘が詰まっているのだから。







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