「理不尽な上司を変えたい」
「学ばない部下を変えたい」
「時間にルーズな恋人を変えたい」
「イタズラ好きな子供を変えたい」
あなたは今までの人生で
「相手に変わってほしい」
と思ったことがあっただろうか?
誰しも一度は
相手のイヤなところに対して
願ったことがあるだろう、
「相手が変わってくれたなら」
と。
この「変わってほしい」
という願いは抱いても仕方のない、
正直な気持ちである。
こちらとしては
被害をこうむっているのだから。
それなら相手に相手の
イヤなところを伝えてみれば・・・
と思うだろうがそれで相手が変わることは
ほぼないだろう。
相手からしてみれば
「は?なんで?」
なのである。
相手が自分の正義を
主張してきたって
否定することはできない。
なぜなら
被害を受けているように
感じているのは自分だけ
かもしれないからだ。
ゆえに
相手を変えることは難しく、
相手が変わることはほぼない。
この世の中の人たちがみんな
自分が指摘されたことを
改めることができていたら、
それで変わることができていたら、
世界はもっと
イージー(”易しい”)だろう。
少なくとも
私が見ている世界は
ディフィカルト(”難しい”)ように思う。
■期待をやめる
「嫌われる勇気」という本。
”アドラー心理学の
わかりやすい解説書”として
大ベストセラーになった本なのだが
あなたはご存知だろうか?
その本の中で教えを説いている
心理学者のアルフレッド・アドラーは
こう言葉を残している。
「健全な人は
相手を変えようとせず、自分が変わる。
不健全な人は
相手を操作し、変えようとする。」
相手を変えるがためにとった
”指摘”という行動は、
見方を変えると
”操作”になってしまうというのだ。
「それでも指摘しないと
相手が変わってくれない」
と思うならば、
「相手に変わってほしい」
という願いは潔く捨ててしまおう。
切なく感じるが、
それが”変える”という点において
一番簡単に起こせる変化なのだ。
願いはときに”期待”になる。
人は期待するとき、
同時に裏切られる準備をしている。
期待が叶わなかったとき
温かな思いは熱を引き、
冷たい悲しみに変わってしまう。
この悲しみで
心が冷え固まらないためにも
「相手を変えようとせず、
自分が変わろう。」
あなたがその相手のことを
好きならば期待しない。
あなたがその相手のことを
好きでないなら諦めて距離をとる。
そうやって自分を
うまく変えて変えていく。
「相手が悪いのに
なんで自分ばかりが」
と思うかもしれない。
そんなときは、
「自分は徳を積んでいるのだ」
と楽観的に思うのが良いだろう。
「相手が悪い」という
見方は”操作”を生んでしまう、
世界が
ディフィカルトになってしまう
”根源”だと私は思うのだ。
きっと本来、善悪はない。
善を生みだす心、
悪を生みだす心があるから
善悪が生まれると思っている。
「人が自分に優しく
人が人に優しく居れるとき、
世界はイージーに
なっていくのかもしれない。 」
これは期待になるだろうか?
いや、単なる私の想像である。
申し訳なかった笑
どうぞお気になさらず。
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