普通という名の日用品には見直しも必要である



「豚キムチ!」
答えたのは私の知人である。
「好きなおにぎりの具は何?」
という質問に思いもよらない回答が返ってきた。
おそらく私の知人の
具のチョイスは少数派だろう。
「珍しい人」とも言えるが
「変わっている人」とも言えてしまう。
だが、ここでもし知人が
「鮭」や「明太子」、「ツナマヨ」と
答えていたら私は「普通だな」と思うことだろう。
して、「普通」とは何だろうか。
辞書には
「特に変わっていないこと。
ごくありふれたものであること。」
と記してある。
私が朝起きて歯を磨くことは普通であるし、
朝食にごはんを選ぶことも普通。
ランチタイムに入った
おそば屋さんで”ざる蕎麦”を頼むことも普通だし、
仕事後のご褒美にコンビニでアイスを買うのも、
どれもどれも
”普通”に見える思考、行動だろう。
しかし例えば
歯磨き粉に生クリームを使っていたとしたら?
間違いなくこれは”普通”ではない。
私たちは生まれ、育つ過程で
見えない”普通”というものを教えられ
生きてきている。
見えない空気のような”普通”は
規則、常識、ときに習慣として存在し
私たちを守ってくれる。
哲学者デカルトはこう言った。
『常識とは
この世で最も広く分配されている
日用品である』
常識という普通は
人々の生活、人生になくてはならないものだ。
しかし、
日用品である以上
破損、故障、消耗は避けられない。
時代の価値観の変化によって
生まれた破損は、
その日用品(普通)がもはや
機能しなくなってきていることを教えてくれる。
自分が今生きる社会の日用品に
破損は、故障はないだろうか。
もしあるのであれば
日用品を見直すべきではないだろうか。
この先もより多くの人が心地よく
日用品を使っていけるように。
また、私たちは
新たな日用品を生むこともできる。
それは、
「私はこう思う」と声を発した人、
そしてその声を支える人たちにより、
その時代に必要な日用品が生まれる。
避けられない日用品(普通)の消耗、
見て見ぬ振りをしてきたキズ、ヘコみ。
よりよく改良し、
新たに生み出していくのは
共に生きる一人一人なのだろう。
そうそう、
私の生活必需品である
ブラックペッパーが切れていた。
これは故障ではない、
”コショウ”の方である。
p.s
私の好きなコンビニのおにぎり。
いつも「昆布」一択です。

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