もし、記憶の場所が目にあったのなら




私は以前、
ふとこんなことを思った。



「思い出や記憶は
言葉でしか語られないが、
もし、記憶の場所が脳の他に
目にもあったなら、


私は間接的に相手の記憶を
見ることになるのだろうか?」





そう思ったのは以前私が、
木村拓也さん(以後”キムタク”と
呼ばせて頂きます)の娘さんである
Kokiさんにお会いし、
Kokiさんの目を見て
お話させていただいたのが、
発端(ほったん)である。

キムタクを見たKokiさんの目を
見たということは、間接的に私も
「キムタクを見た」
ということになるのでは?!
と思ったからだ。






目はその人が見てきたものを
すべて知っている。

目から得た情報が脳へと送られ、
「記憶」になる。


しかしもし、

記憶の場所が脳の他に
目にもあったのなら、
私は間接的に相手の記憶を
見ることになるのだろうか?



そうだとしたら
私は間接的に、

相手の思い出を
見ることになるだろう。


相手の人生を
見ることになるだろう。






これは何も
思い出や人生について
だけではない。

私に好きな人ができたとして
もし、相手の記憶の場所が
目にもあったならば私は間接的に、

好きな人の好きだった人を知るだろう。


好きな人の愛し方を知るだろう。


好きな人の幸せだった瞬間を知るだろう。







目については
こんな表現を聞くことがある。

「目が綺麗」


これは、
その人の心情が表れた目が
綺麗なことを表す誉め言葉である。


「目は心の窓」
というように、
目にはその人の心の中を映し出す
鏡のような所がある。

そんな目を見て
自分が「この人の目は綺麗だ」
と思ったならば、
それは、 

自分がその人が見てきた
「綺麗なもの」を
間接的に見るからだろう。

(単純に目が綺麗な場合もあるが)


その人が見た"綺麗"を
自分がその人の目を通して見るから
"綺麗"と思うのだろう

と私は思う。






その人が見てきた
「もの・人・景色」を
目はすべて知っている。

「綺麗」も、
そうでないものも。




目はすべてを
知っているのだ。

単に記憶を伝えてこないだけで。




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