人生とはきっと「あい」の間にあるもの



今日はちょっと命との
向き合い方のお話です。
お釈迦さまって
いらっしゃいますよね?
2500年前に生まれたとされる
仏教創始者のお方です。
その悟りをひらいたとされる
お釈迦さまでも恐れたものが
「病・老・死」です。
王子として生まれ、
幼いころから何不自由のない暮らしを
送っていたお釈迦さまですらいつしか、
「生まれてきた者は年老いて、病気にもなり、
そしていつか必ず死んでしまう」という、
誰一人と逃れることのできない問題に
思い悩むようになります。

人間、動物、植物、
万物に訪れるものが
「衰」や「死」です。
そして「死」は
自身で体験する事ができません。
「生」もまた、
自身で体験する事ができません。
「生」と「死」は
とても大切なことなのに、
自身の意志では体験できません。
私たちは、
誕生する命に触れることで
「生」を感じ、
亡くなる命を前に
「死」を感じます。
とても大切なことなのに、
生と死はいつも他者の存在からしか
感じることができません。
「生を前に流す涙」と
「死を前に流す涙」
その涙する際の感情はきっと、
同じではないでしょう。
ですが、
どちらの涙にも含まれる
心(思い)がございます。

それは、
 「あい(愛)」です。

生を前にした涙は
愛おしさという「愛」です。
死を前にした涙は
哀悼(あいとう)という「愛」です。
生を前にした「愛」は
悦ばしく祝福の愛です。
オレンジ色の温かな愛です。
しかし、生の愛に比べ
死を前にした愛は辛く苦しい愛です。
濃い青に紫がかった
悲しい愛です。
いつかあなた様が誰かの死を前にし、
涙が溢れ、この苦しさ、悲しさから
逃れるためにはどうしたらいいかと
悩んだ時、
その時はただ、
こう思ってみてください。

「愛していたんだな」
ただ流れる涙も
胸がつかえる苦しみも
それはあなた様が
「愛していた」からです。
「愛していた」という事実、
「愛」という感情のほかには
何もいりません。
ただ「愛していた」という
実感さえあればいいです。
生を前にした涙は
愛おしさという「愛」
死を前にした涙は
哀悼(あいとう)という「愛」
私たちに人生はきっと、
「あい」に始まり
「あい」に終わります。

「人生」というのはその
 「あい」の間にあるものなのかも
 しれませんね。


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